「過去はその時点では今だったんだよな。」
「ということはもう一度振り返って、認知を修正すればよくね。」
「あってはないことと認知すると興奮の最上級の行動を起こす動機になるかも。」
分かります、その分析。
こんにちは、【人の信用を守る人】です。
すべては今しかありません。
今を生きることの大切さを
色々な宗教や心理学、認知行動療法で推奨していることです。
今日は過去を少し深掘りしていきます。
過去、過去と言いますが、その時点では現在今です。
目の前の今に集中できずに過去の時点の今が
脳内でありありとちょっとしたきっかけで
半自動的に反芻されるされるのは、
もう何者でもない最上級の認知のゆがみの一つです。
しかし、例えば、脳内で梅干を想像しただけで、
唾液が溢れたりする脳の処理なので、
ありありと何度も過去を同じタグで認知すると
依存したくなる興奮ポイントを作成することになります。
そして、目の前の今に何か災いが降りかかりそうになると
水戸黄門の紋所のように
ほら過去にこんなことになった人間の今の行き着き先は
いつもこうなるんだ。という
何の因果関係もない事象同士を
いつも、常にという言葉で包んでつなげようとします。
そして、自分の新たな挑戦への勇気をくじく下地を作り上げます。
過去だろうが、現在だろうが、どう認知しているのかを
その都度、自分を客観的に見て、言語化し理解を深めるのが、
私にとってはもっとも自分らしくない行為である、
過去に対する歪んだ認知を自分の道しるべにする半自動行為を
制御する第一歩だと今年2020年一年かけて理解しました。
例えば、人を殺すことや自殺することなんてはなから考えないことと
タブー視することは後々天と地との結果になるかもということです。
誰かから言われただろうが、
自分の認知のゆがみの箱の中に自分がタブーだと思っていることを
入れることはあとあと大きな事件を生み出すくらいの動機になりえる
ということです。
私の認知のゆがみの中に入っているものと感じる代表例といえば、
怒りと言う感情ですね。
家族から言われた言葉を真に受けて、
その後小学校3年生からの自分の経験値を
歪んだ認知の箱にタブーとして怒りという感情を入れていますね。
タブーとしているとは特別視しているということです。
人の怒りを特別視しているということ。
なので、そこが自分であれ、目の前の他人であれ興奮ポイントに
なっています。
これは2021年前半の課題ですね。
他にもまだ自分で気が付いていないもが、
認知のゆがみの箱の中に入っているかもしれません。
まさに自分で認知しなければゆがみを矯正できませんね。
今考える作戦1は、
怒りというとっても抽象的な概念でなく、
実際に怒りのタグにラベリングされている過去の
一つ一つの歪んだ認知の手前にある脚色されていない事象に
好奇心を膨らませることでしょうかね。
これはこれで面白い言語化ができそう。
今そう考えている時点でいい方向性なのかもしれません。
怒りに関する文献を広く調べる楽しみが一つ出来ました。
どちらにしろ、今ここしかありません。
それ以外は全部情報でしかありません。
目の前で私に向かって怒り狂っている人を
情報として瞬時に処理が出来ることを一つの目標にします。
そのためには、一つの仮説は、怒りをタブー視するあまり、
喜怒哀楽の感情の中で怒りの感情を表すシチュエーションだけを
ハードル高くしている認知から生まれているのではということです。
つまり怒りと言う感情をグラデーションで捉えられていないということ。
怒るか我慢するかどちらかという二択という認知のゆがみ。
自分自身が怒る行為を特別な時にしか表していないと認知しているので、
相手も怒りを表した時には特別なものだと萎縮することにつながっている
のではないかという仮説です。
その処方箋の一つが怒りにまつわる語彙を増やすことをしてみようと思います。
怒りの語彙を増やせば、怒りという感情も他の感情と同じで、
グラデーションがあるもので、絶対視、タブー視することから
自然に開放される可能性を感じるからです。
おおー、怒りの語彙を増やすなんて面白い発想を思いついたな。
確か、心理学の実験に
その感情の語彙表現を増やすことが
その感情をコントロールにつながったという結果があったはず。
やる価値ありそうですね。
小説を読むことは感情表現を増やすことにもつながりますね。
怒り辞典なんて本はインパクトがあって面白そうだな。
あなたは認知のゆがみの箱に入れているものはありますか。
以上、【人の信用を守る人】でした。
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